名誉毀損における相当性の抗弁は報道時点で把握していた証拠に限られる-ロス疑惑北海道新聞社事件

真実性・相当性の理論と立証

あなたの書いた記事や制作した番組が名誉毀損であるという理由で、損害賠償や謝罪広告掲載の請求の裁判が提起されたとき、名誉毀損であるとされる事実が真実であること(真実性)を主張立証するか、または事実が真実であると信じたことに相当の理由があること(相当性)を主張立証する必要がある。

 

さて、もう一つ留意しなければならない点がある。立証というものの、どのような範囲の資料を証拠として利用することができるかという点だ。判例を見る前に先走ってしまうが、結論的には次のようになる。

つまり、真実性の証明には、事実審(つまり控訴審)の口頭弁論終結時までの資料(緑の部分)を立証に利用できるが、相当性の証明には、報道時までの資料(青の部分)だけしか立証に利用できないのだ。

ロス疑惑北海道新聞社事件

これを最高裁レベルで最初に判断したのが、いわゆる「ロス疑惑」の北海道新聞社事件である。

事案の概要

1981〈昭和56〉年8月13日、X(原告・被控訴人・被上告人)の妻Aが、アメリカ・ロサンゼルスのホテルで、何者かに凶器で殴打され負傷する事件(殴打事件)が発生した。

1985〈昭和60〉年9月11日、Xが殴打事件の被疑者として逮捕されると、翌9月12日、Y(北海道新聞社:被告・控訴人・上告人)は、通信社の配信記事を基にして、Xが殴打事件の犯人であることを推測させる内容の記事(本件記事)を掲載した。この記事が名誉毀損となるとして、XはYに対し損害賠償請求事件(本件事件)を提起した。

殴打事件および本件事件は次の表のように経過している。なお、殴打事件とは別に、XはAを殺害した殺人事件の犯人として刑事裁判を受けたが、こちらは無罪で判決が確定している。

本件事件の経過 殴打事件(刑事事件)の経過
1981/8/13 Xの妻が米国ロサンゼルスのホテルで凶器で殴打され負傷
1985/9/11 X逮捕
1985/9/12 Yが通信社の配信記事を基に記事掲載
1985/10 殺人未遂罪でX起訴
1987/8/7 東京地裁でX有罪判決
1993 XがYに対し名誉毀損による損害賠償請求訴訟を東京地裁に提起
1994/6/22 東京高裁でXの控訴棄却
1995/4/20 東京地裁がXの請求認容判決
1995/11/27 東京高裁がYの控訴棄却判決
1998/10 最高裁でXの上告棄却
2002/1/29 最高裁がYの上告認容・破棄差戻

争点

最高裁での争点は、①名誉毀損における「真実性」の証明の判断の基準時はいつか、②真実性の立証のために使える証拠はどの範囲のものかであった。

本件事件に照らすと、東京地裁の判決時および東京高裁の審理時には、未確定ではあるものの、Xの刑事事件の地裁・高裁の有罪判決が出ていた。もしも真実性の証明を“記事を掲載した時点”で判断するならば、これらの有罪判決は、その時点では存在していないものであるから、真実性の判断において考慮することができないことになる。

東京高裁(原判決)は、この立場を採った。①について、真実性の証明は記事の掲載時とし、②について、記事掲載時点で存在した資料に基づくと判断したのである。
これを覆したのが最高裁判決である。

判旨

原審の上記判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。

民事上の不法行為たる名誉毀損については、その行為が公共の利害に関する事実に係り、その目的が専ら公益を図るものである場合には、摘示された事実がその重要な部分において真実であることの証明があれば、上記行為は違法性がなく、また、真実であることの証明がなくても、行為者がそれを真実と信ずるについて相当の理由があるときは、上記行為には故意又は過失がなく、不法行為は成立しない(最高裁昭和37年(オ)第815号同41年6月23日第一小法廷判決・民集20巻5号1118頁参照)。

裁判所は、摘示された事実の重要な部分が真実であるかどうかについては、事実審の口頭弁論終結時において、客観的な判断をすべきであり、その際に名誉毀損行為の時点では存在しなかった証拠を考慮することも当然に許されるというべきである。けだし、摘示された事実が客観的な事実に合致し真実であれば、行為者がその事実についていかなる認識を有していたとしても、名誉毀損行為自体の違法性が否定されることになるからである。真実性の立証とは、摘示された事実が客観的な事実に合致していたことの立証であって、これを行為当時において真実性を立証するに足りる証拠が存在していたことの立証と解することはできないし、また、真実性の立証のための証拠方法を行為当時に存在した資料に限定しなければならない理由もない。他方、摘示された事実を真実と信ずるについて相当の理由が行為者に認められるかどうかについて判断する際には、名誉毀損行為当時における行為者の認識内容が問題になるため、行為時に存在した資料に基づいて検討することが必要となるが、真実性の立証は、このような相当の理由についての判断とは趣を異にするものである。

結論

上記の最高裁判決は、民事で通説的見解とされていた見解を採ったものである。すなわち、通説的見解では、①証明の対象は事実が客観的に真実であったかどうか、②真実性の基準時は事実審口頭弁論終結時、③真実性の立証のための証拠には制限はない、とされていた。

高裁判決は、この通説的見解とは異なり、前述のとおり、真実性の証明の判断基準時を行為当時に設定して、殴打事件の有罪判決は名誉毀損行為後に収集されていることを理由に、真実性立証のための証拠とはなし得ないと判断。最高裁は、この点で、事実の真実性を認定する際の立証の対象または立証のための証拠の範囲について、判断を誤ったとした。
事件は破棄され、高裁に破棄差し戻しされた。

相当性の立証資料

上記の判決の中心は、争点で述べたように、真実性の判断時期と証拠の範囲であるが、相当性の判断時期と証拠の範囲もそれに優るとも劣らず重要である。名誉毀損訴訟では、真実性のみならず相当性を争う事件が大半だからだ。

判旨の中で触れられている「他方、摘示された事実を真実と信ずるについて相当の理由が行為者に認められるかどうかについて判断する際には・・・」という部分が、真実性の証明ではなく、相当性の証明に関するものだ。冒頭で書いたように、相当性の証明は、行為時=報道時に存在した資料に基づいて判断される。

どのような場合に、この判旨が重要になってくるかだが、“報道後に入手した資料”に基づくならば、事実を真実と信ずるについて相当の理由があると認められそうな場合である。報道時には入手していないのだから、この資料は真実性の証明には利用できても、相当性の証明には利用できない。

これは割と誤解されているらしく、相当性の証明は報道後の資料でもかまわないと考えている人もいるようだ。法律的なテクニカルな問題のように感じられるが、裏を返せば、報道時に真実と信じる十分な資料をもって報道する必要があるということになる。報道に携わる方には耳タコのような話だろうが、留意しておきたいところである。

ちなみに、BPOの放送倫理検証委員会では、内部告発に基づいた放送について、決定第1号で次のように述べて放送倫理上の責任を検討している(下線は筆者)。

番組を放送する際の妥当性は、放送時点において、その告発内容が真実であると信じるに足る相応の理由や根拠が存在したかどうかが重要な分岐点になる。仮にのちになって、その告発が事実ではなかったことが判明したとしても、種々の状況や取材調査の結果から判断して、放送の時点で、信じるに足るとの一定の合理的根拠が存在していたのであれば、その番組の放送倫理上の責任を問うことはできない。

この考え方は、名誉毀損の相当性の理論を放送倫理に敷衍したものだ。告発内容を放送した事実と置き換えると、放送一般にも同様の考え方を及ぼすことができる。実際、放送倫理検証委員会が誤報と指摘された番組について判断する際には、ほぼこの考え方によっている。
留意すべきなのは、「放送時点において」という点である。つまり、放送時点で真実と信じるに足るとの一定の合理的根拠があれば、のちに真実でないことが分かったとしても、放送倫理上の責任は問えないことになるのである。報道時点で十分な資料に基づいて報道しているか、これがキーである。

参考資料:三宅弘・小町谷育子『BPOと放送の自由』日本評論社(2016年)

亡くなった人に対して名誉毀損は成立するか―『落日燃ゆ』事件

亡くなった人に対する表現について、名誉毀損を理由とした損害賠償請求や謝罪広告請求の訴訟が起こされることがある。表現の対象となっている人はすでに亡くなっており、訴訟を提起することはできない。代わって原告になるのは主に近親者であるが、どのような判断がなされているのだろうか。死者の名誉毀損といわれている論点である。

リーディングケース『落日燃ゆ』事件

リーディングケースは、作家城山三郎の『落日燃ゆ』をめぐる訴訟である。出版した新潮社のウェブサイトによれば、『落日燃ゆ』は次のように紹介されている。

東京裁判で絞首刑を宣告された七人のA級戦犯のうち、ただ一人の文官であった元総理、外相広田弘毅。戦争防止に努めながら、その努力に水をさし続けた軍人たちと共に処刑されるという運命に直面させられた広田。そしてそれを従容として受け入れ一切の弁解をしなかった広田の生涯を、激動の昭和史と重ねながら抑制した筆致で克明にたどる。毎日出版文化賞・吉川英治文学賞受賞。

本記事の判例として紹介する事件は、この『落日燃ゆ』の中に登場する広田元首相のライバルと目されていた外交官Aをめぐるものである。 続きを読む →

記事内容の真実性を誤信した場合の名誉毀損罪の成否-夕刊和歌山時事事件

前回の記事で、民事訴訟における相当性の理論について最高裁判例を紹介したが、刑事裁判ではどうなっているのかを略してした。今回それを補足しようと思う。

名誉毀損罪の構成要件と法定刑

名誉毀損罪は、刑法230条1項に次のように規定されている。

(名誉毀損)
第230条 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。

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報道した事実を真実と信ずるについて相当の理由があるときには名誉毀損は成立しない―署名狂やら殺人前科事件

報道に携わる人が必ず押さえておかなければならない法律知識の最上位に挙げられるのは、名誉毀損とプライバシー侵害に関する理論であろう。ところが、これらの理論を理解するのはそう簡単ではない。様々な裁判例の集積があり細かい論点が多数あるからだ。今回は、何といってもまず理解しておくべき、いわゆる「相当性理論」を初めて判断した最高裁判例をまとめてみた。

”報道した事実を真実と信ずるについて相当の理由があるときには名誉毀損は成立しない。”

これは多くの報道関係者が知識として知っているはずだ。最高裁判所は、1966〈昭和41〉年6月23日の第一小法廷判決でこれを判断した。当該事案の第1審判決および控訴審判決を含む多くの下級審判決や学説が、刑法230条の2の規定と同様の法理を民事上の名誉毀損についても適用すべきであるとしてきたことが、最高裁で確認された。現在の裁判実務はこの理論にしたがって名誉毀損に関する不法行為の成否を判断している。

 

署名狂やら殺人前科事件とは

事案の概要

Xは、衆議院議員総選挙に立候補し、選挙公報に経歴として「Y大学経専科卒」、「Z県出身」という情報を掲載した。読売新聞は選挙後に朝刊社会面で、「二月選挙の内幕」と題し、「署名狂やら殺人前科」の見出しで、おおむね次の内容の記事(以下「本件記事」)を掲載した。

①Xが衆議院議員総選挙に立候補した際、Y大学専門部の卒業生ではなく、また養子縁組により朝鮮の戸籍から内地の戸籍に入籍してきた朝鮮出身者であるのに、選挙公報には、それぞれY大学専門部経済科卒業を表示する「Y大学経専科卒」あるいは「Z県出身」と掲載された経歴詐称の疑いがあり、警察署がXを追及していること。
②Xは、殺人の前科を有し、2年前の選挙で辛うじて被選挙権を得たばかりであること。

Xは、本件記事はXの名誉を毀損しているとして、15万円の損害賠償の支払と謝罪文の掲載を求めて提訴した。

第1審判決は、本件記事は、Xの犯罪(公職選挙法違反)容疑および前科に関するものであるから、Xの名誉および信用を害すべき性質のものであることは明らかであるが、真実性が証明される限り免責され、さらに真実性の証明がない場合でも、その事実を真実であると信ずるにつき、相当の理由がある場合には、不法行為の責任を免れるという基準を立てた。そして、学歴詐称の疑いに関する記述は真実であり、さらに出身地詐称については、本件記事の執筆者ないし編集担当者において、Xが「Z県出身」の表示は詐称の疑いがあると信じたについて相当な理由があったと判断。

Xの控訴に対し、控訴審判決も第1審判決を相当とし控訴を棄却。Xは、次の2点の上告理由をあげて最高裁に上告をした。第1点は、本件記事は人身攻撃を主眼とする悪意に満ちた内容である以上刑法第230条の2に規定する免責は準用されないことは明白であり、この点に法令違背があること。第2点は、公務員の候補者に「関する事実」とは当該公務員の職務に対する適・不適の判断に関係ある範囲に限定されるべきであり、遠い昔の前科は現時における人格の徴表ではあり得ず、前科があることをみだりに公表されないということも個人が平和な社会生活を営む上において保護されるべき法益であること。

判旨

まず、「本件記事は人身攻撃を主眼とする悪意に満ちた内容である以上刑法第230条の2に規定する免責は準用されない」という上告理由第1点に対しては、最高裁は次のように言う。

民事上の不法行為たる名誉棄損については、その行為が公共の利害に関する事実に係りもっぱら公益を図る目的に出た場合には、摘示された事実が真実であることが証明されたときは、右行為には違法性がなく、不法行為は成立しないと解するのが相当であり、もし、右事実が真実であることが証明されなくても、その行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があるときには、右行為には故意もしくは過失がなく、結局、不法行為は成立しないものと解するのが相当である(このことは、刑法230条の2の規定の趣旨からも十分に窺うことができる。)

本件について検討するに、原判決(その引用する第一審判決を含む。以下同じ。)によると、上告人は昭和30年2月施行の衆議院議員の総選挙の立候補者であるところ、被上告人は、その経営する新聞に、原判決の判示するように、上告人が学歴および経歴を詐称し、これにより公職選挙法違反の疑いにより警察から追及され、前科があった旨の本件記事を掲載したが、右記事の内容は、経歴詐称の点を除き、いずれも真実であり、かつ、経歴詐称の点も、真実ではなかったが、少くとも、被上告人において、これを真実と信ずるについて相当の理由があったというのであり、右事実の認定および判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、十分これを肯認することができる。

そして、前記の事実関係によると、これらの事実は、上告人が前記衆議院議員の立候補者であったことから考えれば、公共の利害に関するものであることは明らかであり、しかも、被上告人のした行為は、もっぱら公益を図る目的に出たものであるということは、原判決の判文上十分了解することができるから、被上告人が本件記事をその新聞に掲載したことは、違法性を欠くか、または、故意もしくは過失を欠くものであって、名誉棄損たる不法行為が成立しないものと解すべきことは、前段説示したところから明らかである。

次に、「公務員の候補者に「関する事実」とは当該公務員の職務に対する適・不適の判断に関係ある範囲に限定されるべきである」という上告理由第2点に対する判断は次のようだった。

原判決は、国会議員ないしその候補者については、その適否の判断にはほとんど全人格的な判断を必要とし、所論の事実もその適否の判断に関係のある事項であって上告人の前科に関する本件記事が真実である以上その事実の公表は許される旨判示しているのであり、当審も上告理由第1点において判示したように、右判断を正当と考える。所論は、独自の見解に立ち、原判決を攻撃するものであつて、採用しがたい。

刑法230条の2の規定は何と書いている?

刑法230条の条文と成り立ち

さて、上告理由には、刑法230条の2の規定する免責は適用されないとあるが、そもそも刑法230条の2の規定には何と書かれているのだろう。230条の2は230条の特例なので、2つの条文は併せて読む必要がある。まず230条の条文を見てみよう。

(名誉毀損)
第230条 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。
2 死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ、罰しない。

刑法230条1項を読むと、事実を摘示して人の名誉を毀損すれば名誉毀損が成立すると書いてある。「その事実の有無にかかわらず」と規定しているから、事実が虚偽であろうか真実であるかは関係ない。ただし、2項により事実を摘示した対象が死者の場合は、その事実が虚偽でなければ罰せられない。

つまり生存している人の場合には、真実を報道した場合であっても刑法230条は処罰することにしているのである。

この規定は、1907〈明治40〉年に刑法が制定されたときから存在し、そのルーツは、1875〈明治8〉年の讒謗律(ざんぼうりつ)に遡る。讒謗律は、人の栄誉を害する行為(讒毀)と、人の悪名を公布する行為(誹謗)とを罰し、「凡そ事実の有無を論ぜず」に讒毀の罪を成立させていた。条文は次のように定めていた。

第一条 凡ソ事実の有無ヲ論セス人ノ栄誉ヲ害スヘキノ行事ヲ摘発公布スル者ヲ讒毀トス人の行事ヲ挙ルニ非スシテ悪名ヲ以テ人ニ加ヘ公布スル者之ヲ誹謗トス著作文書若クハ画図肖像ヲ用ヒ展観シ若クハ発売シ若シク貼示シテ人ヲ讒毀シ若クハ誹謗スル者ハ下ノ條別ニ従テ罪ヲ科ス

讒謗律第2条以下は、讒毀と誹謗の対象となった人の身分(天皇、皇族、官吏など)に応じて刑罰に軽量をつけていた。

讒謗律は、明治初期に、反政府派からの明治政府への批判を封じ込めるための言論弾圧の治安法として機能していた。讒謗律の問題点と事例については、インターネット上に掲載されている文献として、始澤真純「名誉権保障と表現の自由とその規制―讒謗律の事例紹介と刑法へ変化を中心に―」がある。

1980〈明治13〉年の旧刑法も、讒謗律を引き継ぎ、真実を表明しても罰する名誉毀損罪を規定していた。条文はこうだ。

第三五八条 悪事醜行ヲ摘発シテ人を誹毀シタル者ハ事実ノ有無ヲ問ハス左ノ例ニ照シテ処断ス
一 公然ノ演説ヲ以テ人を誹毀シタル者ハ八十一日以上三月以下ノ重禁錮ニ処シ三円以上三十円以下ノ罰金ヲ附加ス
二 書類画図ヲ公布シ又ハ雑劇偶像ヲ作為シテ人ヲ誹毀シタル者ハ八十五日以上六月以下ノ重禁錮ニ処シ五円以上五十円以下ノ罰金ヲ附加ス
第三五九条 死者ヲ誹毀シタル者ハ誣罔ニ出タルニ非サレハ前条ノ例ニ照シテ処断スルコトヲ得ス

そして、現行刑法230条はそれを引き継いでいる(この経過については、平川宗信『名誉毀損罪と表現の自由』有斐閣、1983年が詳しい)。

刑法230条の2の条文

しかし、真実の言論もすべて罰するという規定は、憲法の表現の自由と深刻な矛盾を生ずる。そこで、“改正された日本国憲法の表現の自由と調整するために、刑法の一部改正の際に230条の2が急遽新設された”と説明されることが多い(改正は1947〈昭和22〉年の憲法施行の年)。条文は次のようになっている。

(公共の利害に関する場合の特例)
第230条の2 前条第1項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。2 前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす。
3 前条第1項の行為が公務員又は公選による公務員の候補者に関する事実に係る場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。

第3項まであるが、基本は第1項だ。公共の利害に関する事実で専ら公益を図る目的があった場合で、真実であることの証明があれば、名誉毀損行為は違法性がなく罰せられないというのである。

第2項と第3項は、「公共の利害に関する事実」(公共性)や「専ら公益を図る目的があったこと」(公益性)について、特定の事実について、これらの要件が満たされるということを説明している条文だ。つまり「公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は」は公表の利害に関する事実とみなされ、「公務員又は公選による公務員の候補者に関する事実」については、「公共の利害に関する事実」(公共性)や「専ら公益を図る目的があったこと」(公益性)の2要件が満たされ、あとは事実が真実であるかどうかだけが問題となるのである。

刑法230条の2の立証責任は被告にある

さて、犯罪の証明は合理的な疑いを容れない程度まで検察官が行うこととなっており、名誉毀損については、検察官は230条の事実の摘示が名誉毀損となることを立証する。無罪推定の原則からすれば、検察官の側で事実が虚偽であることを立証し、230条の2の特例にあたらないことを明らかにするというのが筋道だろう。しかし、刑事裁判実務では、230条の2の事実が真実であることを合理的な疑いを容れない程度に立証する責任は被告人側にあることになっている。つまり事実が真実であるか否かが不明に終わった場合には免責は認められず有罪となる。

なぜこうなっているのだろうか。

“1947年施行の日本国憲法の表現の自由と調整するために、刑法の一部改正の際に230条の2が急遽新設された”という説明が一般的になされることが多く、一応の納得をしていたのだが、先輩弁護士からそう考えるのはおかしいのではないかと指摘をもらった。鍵は、すでに廃止された出版法と新聞紙法の規定にあるとのことだ。

刑法230条の2は元を質せば、廃止された出版法と新聞紙法の免責規定

刑法230条2は「昭和22年の刑法改正にさいし挿入された規定であるが、元を質せば、一定の場合に、諸外国法にならい、真実証明により出版社や新聞社に名誉毀損の免責を認めた、出版法31条(明治26年)および新聞紙法45条(明治42年)の規定を、戦後になって名誉毀損罪一般に及ぼしたものである」と説明されている(五十嵐清『人格権法概説』49頁〈有斐閣、2003年〉)。

それならば、出版法と新聞紙法の規定をみなければなるまい。

出版法(明治26年4月14日法律第15号・昭和24年5月24日法律第95号により廃止)

第三十一條
文書図画ヲ出版シ因テ誹毀ノ訴ヲ受ケタル場合ニ於テ其ノ私行ニ渉ルモノヲ除クノ外裁判所ニ於テ専ラ公益ノ為ニスルモノト認ムルトキハ被告人ニ事實ノ証明ヲ許スコトヲ得若之ヲ證明シタルトキハ其ノ罪ヲ免ス損害賠償ノ訴ヲ受ケタルトキモ亦同シ

新聞紙法(明治42年5月6日法律第41号・昭和24年5月24日法律第95号により廃止)

第四十五條
新聞紙ニ掲載シタル事項ニ付名譽ニ對スル罪ノ公訴ヲ提起シタル場合ニ於テ其ノ私行ニ渉ルモノヲ除クノ外裁判所ニ於テ悪意ニ出テス専ラ公益ノ爲ニスルモノト認ムルトキハ被告人ニ事實ヲ證明スルコトヲ許スコトヲ得若其ノ證明ノ確立ヲ得タルトキハ其ノ行爲ハ之ヲ罰セス公訴ニ關聨スル損害賠償ノ訴ニ對シテハ其ノ義務ヲ免ル

出版法も新聞紙法も、それぞれ「被告人ニ事實ノ証明ヲ許スコトヲ得」、「被告人ニ事實ヲ證明スルコトヲ許スコトヲ得」とあり、被告人側で真実であることを証明する責任を負わせている。

もう少し調べてみると、前記の平川宗信『名誉毀損罪と表現の自由』に、出版法と新聞紙法の位置付けが書かれている。平川教授は次のように述べる。

刑法が事実の真否を問わないとしていたのに対し、明治26年の出版法および明治42年の新聞紙法は、いわゆる真実の証明による免責の規定をおいている。これはいかなる性質をもつものであろうか。
わたくしは、これらの規定も、当時の状況のもとにおける治安法の論理に基づいてそれが許す範囲内で真実の表明を許容したにすぎず、表現の自由尊重の思想にでたものでないことは明らかだとおもう。
……明治国家の権力も次第に強固なものとなり、やがて天皇制絶対主義体制が確立されるに至ると、真実の暴露が体制を根底から危うくするようなことはもはや考えられなくなり、この面からも名誉毀損罪の言論統制法としての役割は相対的に低下したようにおもわれる。このような段階に至れば、権力の側でも検閲など行政法規による事前的・行政的抑制が用意された言論については、名誉毀損罪による言論統制の範囲をある程度縮小しても、言論統制全体としてはとくに不都合は生じないことになる。出版法・新聞紙法はこの方向を政策的に選択したものにほかならない。したがって、出版法・新聞紙法における真実の証明による免責の規定は、あくまでもこのような治安法の論理の枠内において、より強力な言論統制法の存在を前提として、自由な言論の要求に若干の譲歩を表面上示したものにすぎない。これを表現の自由の承認に基礎をおくものとみることはできないのである。

以上のとおり、刑法230条は讒謗律を引き継ぎ、さらに230条の2は表現の自由に基礎をおくものとみることのできない出版法・新聞紙法の免責規定が一般法である刑法の中に取り込まれたという経過になる。230条の2が表現の自由と名誉の保護を調整したとは言えるかどうかは疑問符がついてくるわけである。

さて民事訴訟ではどうなる?

名誉毀損訴訟における免責

さて民事訴訟で名誉毀損が争われた場合、上記の判旨にあるとおり、名誉を毀損する表現行為が、

①公共の利害に関する事実であること(公共性)
②もっぱら公益を図る目的があること(公益性)
③摘示された事実が真実であること(真実性)
を証明した場合には、違法性がなく不法行為は成立しない。
また、摘示された事実が真実であることを証明されない場合でも、①と②を満たしている場合で、表現行為をした者にその事実を真実と信ずるについて相当の理由があるときには(相当性)、故意もしくは過失がなく、不法行為は成立しない。

免責の主張立証責任

民事裁判実務では、これらはすべて被告(表現行為をした者)の側で主張立証することとなっている。不法行為の成立要件はすべて請求をする原告の側が主張立証することになっているから、摘示された事実が虚偽であること、事実を真実と信じたことについて故意または過失があることを主張立証させたとしても特に問題が生じるとは思われない。しかし、残念ながらこのようには考えられてはいない。

不法行為法には、刑法230条の2のような明文での免責規定はない。上記の最高裁判決は、「このことは、刑法230条の2の規定の趣旨からも十分に窺うことができる。」と述べるだけで、なぜ名誉毀損行為が免責されるかについて特に理由を示しているわけではない。ただし、刑法230条の2の規定を類推するという構成を取っていると考えられるため、民事裁判でも、公共性、公益性、真実性および相当性は抗弁として被告の側に主張立証責任を負わせるという見解が受け入れられることになる。

被告の側が真実性・相当性の主張立証責任を負うということは、その立証に失敗すれば、被告の側が敗訴することを意味する。一方、原告の側の主張立証は名誉毀損行為であることであるが、これは名誉毀損行為とする新聞・雑誌の記事、テレビ番組のビデオを裁判所に提出し、どこが名誉毀損にあたるかを主張すればほぼ満たされる。一方、被告の側は、取材源の秘匿という報道機関にとって大切な守秘義務を負いながら、真実性・相当性の主張立証責任を果たさなければならない。これは相当大きな負担にちがいない。

取材源の秘匿についてはこちらへ 「取材源の秘匿―NHK記者証言拒絶事件を読む

この被告の側に真実性・相当性の主張立証責任を負わせるという考え方には、名誉の保護に傾き表現の自由との調整が十分ではないとの批判があり、主に憲法研究者や実務家から、より表現の自由を保障する理論の導入が提唱されている。虚偽であることを知って、もしくは虚偽かどうでないかを一向に介さずに、あえて表現したという「現実の悪意」がある場合にのみ損害賠償が認められるというアメリカ判例(New YorkCo. v. Sullivan, 375 U.S. 254)の理論の導入を唱える見解(松井茂記『表現の自由と名誉毀損』有斐閣、2013年)や、真実性・相当性の証明についての立証責任を、原告が公人である場合には、被告ではなく名誉毀損を主張する原告に負わせるべきであるとする見解などである。

いったん最高裁判例が出ると、それにならって下級審判決が出され、最高裁の理論が一層定着することになる。1966年の判決からすでに50年が経過している。一方で、相当性の理論の主張立証責任を刑法の規定の成り立ちから検討すると、果たしてこのままでいいのだろうかという疑問がつきない。これからも考えていきたいと思う。

更新:2017年3月4日-讒謗律と旧刑法の条文を掲載しました。

取材フィルムやビデオテープの提出を求められたらどうする?-博多駅テレビフィルム提出命令事件

前回の記事で、取材源の秘匿の判例を読んだが、今回は広い意味での取材源の秘匿―取材を通じて得られた情報(取材メモ、フィルム、ビデオテープなど)の開示を強要されない権利―について考えてみよう。
学説上「広義の取材源秘匿権」と呼ばれている。

この問題については最高裁判所の判断(最高裁昭和44年11月26日大法廷決定)がある。前回の記事で紹介した博多駅テレビフィルム提出命令事件だ。以後この決定の判断枠組みに従って類似の事案が処理されている。

博多駅テレビフィルム提出命令事件

事案の概要

事案は1968〈昭和53〉年にさかのぼる。アメリカの原子力空母エンタープライズの佐世保寄港を阻止する運動に参加するために、1月16日に三派系全学連学生が約300人博多駅で下車をした。ここで、福岡県警察の機動隊員らと衝突が起き、公務執行妨害罪で逮捕される学生が出た。

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取材源の秘匿―NHK記者証言拒絶事件を読む

憲法21条をめぐる参考となる裁判例を少しずつサイトにアップすることにしました。
まずは取材源の秘匿からです。

取材源の秘匿は重要な職業倫理

一般に、取材源の秘匿は、報道関係者が守るべき重要な職業倫理であるとされている。たとえば、読売新聞と朝日新聞のウェブサイトには、記者行動規範として次のように書いてある。

読売新聞「情報源の秘匿は、最も重い倫理的責務であり、公開を求められても、本人の同意がない限り開示してはならない。また、オフレコの約束は、厳守しなければならない。」

朝日新聞「情報提供者に対して情報源の秘匿を約束したとき、または秘匿を前提で情報提供を受けたとき、それを守ることは、報道に携わる者の基本的な倫理である。秘匿が解除されるのは、原則として情報提供者が同意した場合だけである。」

テレビも同様の立場を取っている。日本放送協会(NHK)は、「放送倫理の確立に向けて」(放送現場の倫理に関する委員会)で、「部外者に対する取材源の秘匿は、取材する者の最も守らなければならない職業倫理の一つである。この保証がなければ、何人といえども真実を言わなくなり、取材が成立しなくなる。」と表明し、NHK放送ガイドライン2015の「4 取材・制作の基本ルール」で取材源の秘匿について、次のように記載している。

○ 取材源の秘匿は、報道機関が長い期間をかけて培ってきた職業倫理の一つである。

○ 重要な情報は、時により提供者や取材協力者の名前を秘すことを条件にしなければ入手できないことがあり、秘匿を条件に得た取材源は第三者に明かしてはならない。この保証がなければ、取材相手は真実を話さなくなり、真実の究明によって国民の知る権利に応えることができなくなることを常に忘れてはならない。

民放では、番組制作のガイドラインをウェブサイト上で公開している会社はそれほど多くはないが、取材源の秘匿は自明のこととして共有されているものと思われる。

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